下田市立図書館・利用者カードのモチーフについて 本文へジャンプ
これが下田市立図書館の利用者カードです。 イメージ

この絵、見たことありますか?
この絵は、大正13年から昭和19年まで下田で発行されていた雑誌「黒船」表紙を飾ったものです。
(創刊号から第三巻第九号まで)
――雑誌「黒船」について。
 今から100年近く前、大正13年(1924)のこと。豆陽中学(後の下田北高)で同級生だった、当時23才の若者3人が集まって話をしていました。彼らは豆陽中学を卒業後東京で学び、所謂「大正デモクラシー」の洗礼を受けて下田に帰ってきた仲間でした。東京帰りの彼らの目に映った当時の下田は、地域の有力者だけがすべてを牛耳っていて一般庶民は何の関わりもない、多分に保守的な町でした。とにかく何か自分たちで行動を起こしたかった彼らは、「雑誌を作ろうじゃないか!」ということで一致します。同年10月、森 一(もり はじめ)氏を中心に仲間を集めて黒船社を設立し、下田町発行の雑誌「黒船」が誕生します。
 
 雑誌の内容は賀茂郡下の政治問題や郷土の歴史、地元商店の評判、各学校長や青年団長の人物評、同人・読者の小説や詩など、多岐に渡るものでした。
 現代のようにブログやツイッターなどで気軽に発言できるような環境がなかった時代、「黒船」は人々に発言の場を与え、また小説や詩歌など創作活動の発表の場となりました。創刊当時500部だった発行部数も、多くの人々に支持された結果、5年後には4倍の2000部にまで達しました。さらに弁論大会や義太夫大会など黒船社主催のイベントも多数開催することで、下田を盛り上げていきました。
 今では有名な“唐人お吉”の話も、郷土史家・村松春水医師が「黒船」の連載の中でお吉について紹介したことがきっかけでした。それが読者に大きな反響を呼び、日本中で一大お吉ブームとなったのです。また現在下田市で毎年5月に開催される黒船祭も、昭和8年12月の「黒船」で実施案が掲載されています。提案したのは同人で当時下田町の助役・保勝会(後の観光協会)のメンバーであった森義男氏でした。そして翌昭和9年、ペリー来航80周年を記念して、第1回黒船祭が開催されました。「黒船」が当時の社会に与えた影響はとても大きかったことが窺えます。

 「黒船」は回を重ねるごとに評判を呼び、萩原朔太郎や島崎藤村など名立たる文士の投稿も見られるようになります。また吉川英治や石黒敬七など中央で活躍していた文人・知識人が同人として加わったことで、雑誌の内容はさらに豊かなものになりました。 黒船社のメンバー達は、仲間の死や経営難など幾多の苦境を乗り越えながら、「黒船」を立派な郷土誌として成長させ、下田の文化の発展に大きく貢献していきました。
 その後時代は戦争へと突入していき、「黒船」にも戦争に関する記事や言葉が目立つようになります。そして昭和19年3月、「黒船」は第21巻第3号で突然休刊してしまいます。最後となった号には、これで終わりだとわかるような言葉はどこにも出てきません。21年続いた郷土誌は何の前触れもなく幕を閉じたのでした。
 
  図書館の利用者カードのモチーフとなっているこの絵は、そうした下田の文化の幕開けを担った雑誌「黒船」に倣い、波立つ海に乗り出す黒船の姿のように、厳しい時代に立ち向かいつつも下田の文化創造への新たな一歩を踏み出そうという願いを表しているのです。

 
 「黒船」は図書館で見ることができます。創刊号から第十巻までは復刻版も出版されており、貸出もできます。興味をお持ちの方はぜひご覧になってください。
 

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